昭和56年1月18日 月次祭
秋山誠治
今日、午前中の奉仕をさせてもらっている時、日田の森山さんが、御礼に出て見えられた。「先生、明けましておめでとうございます。」アラー、あんた、今年、(笑い)初めてですか、というて、まぁ、申しましたけれども、昨年は、おかげばっかり頂いて、今年もどうぞ、また、いっちょおかげを頂きますように、今度なんなんという会社をお父さんが設立しましたから、その上にもどうぞ、まぁ、昨年のようなおかげを頂けせて下さいと、こう言うわけなんです。子宮ガン、そして、1週間後に手術という事に決定しました。あーも、ビックリして一生懸命お参りをさせて頂いて、1週間目に癌センターに、入院のところでまいりました。それから、まぁーあらたな、改めて、また検査を受けましたが、もう、癌の気が無かった。もう、それこそ、あの駅で降りて、ここまでお参りを、もう家に帰る前にお礼に出てまいりましたから、ずーと、田主丸駅から、もう、人が見るならキチガイじゃないだろうかと思うように、親先生有り難うございます。金光様有り難うございます。と火のお叫びして、あのお礼に出てきたという。そんなにあるでしょうね。ガンと言えば、もう、死の宣告を受けたようなもの、それが、実際に入院のつもりで、行った所が、入院をせんで帰って、しかも、もう、気も無いというのですから、なんか、あの木工所のような事をしておられる。機械がこう回っておる。主人が、もう、片腕を切り落とすような目に会わねばならない所を、ま、間一髪でおかげを頂いて、無事におかげを頂いたといったようなおかげも頂いたんですから、まぁ、そう言う意味でしょうね。去年は、もうおかげばっかり頂いて、今年もまた、どうぞ、いっちょ、おかげを頂きますように、今年出来た、又、会社の上にも、どうぞ、よろしゅうというわけなんです。先程、大分の臼杵から参って見えます高橋さんご夫妻、夫妻、今、お取次ぎさせて頂いたんですけれども、あちらも、まぁ、お正月から始めて、私が・・参って見えておられたけれども、会っていなかった。きょうはじめてあったから、まあ、いうならおめでとうございます。ですけれども、ね、ことしもどうぞ、いよいよなりゆきをとうとび、たいせつにさせてください。というお届けがございました。昨日は、杷木の市川さんがお礼に出て見えられました。杷木の教会の信徒会長さんです。丁度、10年前に癌の宣告、胃がんの宣告を受けられた。丁度総代さんをしておられて、総代さん2人が、同じ症状でレントゲンの上にも同じ、これは全く同じ症状で、2人とも一緒に手術を受けられる事になった。そして、病院に行かれ1人は、もう、お家え帰られる。1人は・・・高じて、初めて、まぁ、合楽の金光様にお参りをさせて頂いて、こうして、まぁ、ガンの宣告を受けて、いついつは手術という事になり、所がそん時に手術をせんでもおかげ頂くというお知らせを頂いた。だから、もう、とうとう手術をする事をやめられて、当時、一心にここへお参りになりました。もう、ちょうど、昨日が丸10年になる。ね、一人の方は、やっぱり同じ症状で手術を受けて、おかげで無事手術が済みました。ところが、ちょうど丸1年振りに亡くなられた。考えて見ますと、あれから、9年間生き延びのおかげを頂いて、10年間生き延びのおかげを頂いて、その間にさまざまな、まぁ、親として、どうしてもおかげを頂かなければならない、息子さんのお嫁さんの事、娘さん達お2人の、まぁ、学校の先生をなさっておられましたから、ちょっと、まぁ、年がいっておられました。もう、両親のまぁ、いうなら、思いが、ね、であった。それが、去年おとどしが、息子さんが結婚されて、今年、お孫さんに恵まれた。今年は、2人の娘さん達が結婚のおかげを頂いて、もう、それこそ親としての責任も果たす事が出来て、おかげを頂いた。10年前に、もし、なら、亡くなっとったら・・もう1人の総代さんのように1年後に亡くなっとったら、ね、子供達のいうならば、あーの事も心配しながら、心配を持って逝かなければならなかったのを、おかげを頂いて、もう、それこそ、なんと申しますかね。大変手厚いご信心をなさいます。やっぱり、信徒会長までする位ですから、もう、1年、1年目にゃーもう、本当に、それこそ、無い命を頂いたという印がね。感じられる程しの信心をなさいます。今年で、ちょうど丸10年、おかげで77、今年は喜寿のお祝いをさせて頂くというお届けでした。ね、色々お願いにも、または、おかげにも、それぞれに違うわけですけれども、折角おかげを頂きますなら、いうならば、いよいよ有難い、尊いおかげに成って行かなければなりません。おかげを頂いて、無い命を頂いた。ね、なら、ただ、おかげを頂いて有難かったと言うだけではなくて、その無い命を神様に頂いたそれを何かの形で、現せられる、神様が喜んで下さる。言うなら、世の為、人の為にも成らせて頂けれる様な信心に成って行かなければ、そのおかげの値打ちがない。ね、おかげの値打ち、色々です。今日でしたか、昨日でしたか、そこの合楽食堂のお母さんが、毎朝参ってまいります。今度、えー、ご理解付き福引をすばらしいものを引き当てた。み教えもすばらしかったが、この引き当てた物が、あーすばらしかった。大きな額皿になるような、大きな鉢であった。皿である。その皿に描いてあるその絵がすばらしい。なすびとカボチャと人参とまーひとつなんじゃったかな。えー、カボチャとなすびと人参と、なんじゃったか(お広前より座りかぶ)あー、座りかぶとが、書いてあった。ね、だから、それを、ほーう、そりゃー、あんた、その、その絵を皿を見ておるだけで信心が進みそうな感じがするねと、申しましたから、額皿を、あの額立てを買ってそして、あの、飾らせて頂いておると言うて今日お届けがありました。ね、信心には色々な過程がある。只今こちらに出て参ります時に、きょうはみなさんにどんな話を聞いて頂こうかと、思わせて頂いたら、共励殿に大きな額が掛かっております。それは、今の金光様のお若い時の筆で、「道は孤ならず」と書いてあります。道はひとりでには開けないという意味なんです。ね、そこに何かが、なければ道は開けない。だから、言うならば、本当にすばらしい道。いよいよ、本当にすばらしい、あの世にもまでも、持っていけれるというような道を開かせて頂くという事は、どうぞ、今年も、昨年のごたるおかげば頂かせて下さいだけでは、開けないようである。ね、今、高橋さんが、大分のですね、高橋さんがお届けされますように、今年もどうぞ、いよいよ成り行きを尊び、成り行きを大切にさせて下さい。その成り行きの中には、カボチャにならなければならないこともございましょう。ね、けれどもおかげで、ね、いよいよ、心が豊かに大きくなった。カボチャというのは、馬鹿と阿呆で道を開けと仰るそれなんです。ね、みんなが、やっぱり馬鹿になろごつない。けれども、それが信心である。教えである。また、黙って治める事であり、成り行きをいよいよ大切に、その事、事態を神様の働きとして、頂いて行くという生き方、ね、カボチャの事、この辺りではあいつはぼーぶらんごたる奴といいます。ここ辺では、ちぃーとばかんごたる奴と言う時に言うんです。だから、カボチャのお知らせは、馬鹿と阿呆になってと言う時のお知らせなんです。も、いよいよ、心は豊かに大きくなってゆく。ね、人間はね。それこそ、顔が真っ赤になるような、昨日でしたか、福岡の川上さんが、自動車の中で、横に乗られた方が、あなた、合楽あにお参りしよるなさるとですか?私のいとこも、あそこにずーとお参りしよる。そのいとこの子の、いわゆる徹美先生が、あそこん、金光様の先生になってる。と、そのいとこになるという人が、一緒に乗り合わせられた。そして、それこそ軽蔑しきったような言い方をされる。あん人どんが、金光様ばっかりぼうけたごつなってから、とうとう息子ば、金光様の先生にしてしもた。いやーそれはとてもとても、なかなか、良い信心が出来ておられる。この頃から、合同結婚式で中村徹美先生、結婚なさいました。あら、そげなこつでしたか。そればってん、恋愛結婚じゃろもんとこういわしゃつた。なんか恋愛結婚が悪い事のような、ふうに言われた。意あやー、とてもとても、すばらしい結婚式でした。高校でしたと話されたら、そげなこつですか、そげなこつは始めて聞いたといわれたと言う事ですが、親戚の人ですらも、いうならば、馬鹿にしておる様な、軽蔑しておる様な、時がありますけれども、それこそ、面と向かって云われたら、顔が真っ赤に、人参のようになるようなことも、あろうけれども、さぁーそう言う所が信心辛抱である。ね、そう言う時が、馬鹿に阿呆になる時である。ね、そして、いよいよお陰を頂いて、それこそ、全ての様々な事があっても、それこそ、道は孤ならずである。様々な問題、一切を自分自身の信心の道を開かせて頂く為の材料、自分をいよいよ高めさせてもらう、磨かせてもらうお徳を受ける材料にして行く様な生き方を身に付けて行く、ね、カボチャになり、人参になり、ね、そして、座りかぶというのは、なら、息子の徹美先生が、ね、お道の教師になると言う事でしょう。座りかぶのお知らせは、ね、そう言う、いうならば過程と言うか、様々な所を通らせて、様々な事がすばらしい道を開いてくれる。ね、ですから、まぁ、言うなら信心して今日も1日平穏無事にと言うばかりではない。と、言うて、んならば、えー、悪い事を言うて待つな、先を楽しめとも教えられますから、ね、どんな事が起こっても、良いという事ではない。それは、祈りとしては今日もどうぞ無事に御用にお使い回しを頂けれる。けれども、そこに起きて来る様々な難儀であろうが、問題であろうが、ね、それを、言うならば成り行きとして頂き、大事に頂いて行くという事、ね、その頂いて行く、行く手立てが合楽理念を日頃勉強しておかなければ、ならないという風に思うんです。ね、神様のおかげというのは、それこそ、ね、手術しなくても、言うならば、おかげを頂いて、10年間も生き延びのおかげを頂いて、あれもこれも片付いた。あれもこれもおかげになって、今年は喜寿のお祝いが出来る。あん時もし、自分も一緒に言ってあったら、もう、この子供達の成長も、おかげも見る事なしに、おったであろうけれども、合楽にご縁を頂いておったおかげでという、それが、年々歳々大変有難い信心に進んで行かれると言う事が、私は尊いと思う。ね、おかげもまた、それに伴のうて来る。ね、今年もどうぞ、去年のようなおかげの中にね、言うならば、おかげばかりを頂きまして、今年もおかげばかりを頂く事がいけないのではないけれども、私達の信心の構えとしてね、それこそ、成り行きをいよいよ大事に尊ばせて頂く稽古を本気でさせて頂いて、成る程、「徳は孤ならず」先程、新田原の方から参って見えます堀内さん達がお参りになった。私は、この方の時にいつも思うですけれども、私に関わりのある一切衆生の助かりの為にと、お初穂に書いちゃる。ね、私に関わりのある一切衆生、言うなら、お道流に言うなら、難儀な氏子という事になりましょうか?それも、誰も彼もと言うわけじゃない、私に係わり合いのある人達が、助けられてまいりますように、いつも、だから、御神米がたくさん下がります。あの、助かって行っているんです。ね、そう言う、たとえば、おかげを頂きたい。ね、神様が喜んで下さらんはずがない。ね、先日、まぁ、小学校5年生でしょうか、先程申します。中村徹美先生所に遊びに行っている。そして、結婚のお祝いに、僕が神様から頂いたというて、色紙に絵を書いてきた。まぁ、小学5年生ですけれど、すばらしい神様からお知らせを頂くんです。お知らせを頂いたとうりの絵を昨日、若先生が、それを始めてみてから、とても、小学5年生の描いた絵とは、思われんというて感心しとりました。絵もすばらしかけれども、横に書いてある桟がすばらしか、これも神様から言葉で頂いた。「宝は、心の的」と頂いた。その、そして、宝船を描いとるが、その宝船の帆に○まるを描いて、宝と描いてありますね。普通の絵には、・・ところがその大きな帆を描いている所にまるに心と描いてある。そして、横にね。宝は心の目当て、ここではお話を聞く度に頂きますよね。おかげ目当てじゃいかん、宝が目当てだけじゃいかん、信心を高めなければと言う訳だけれども、これは、いわゆるおかげの方が、ね、おかげは目当てじゃなくてから、おかげは心の目当てだといっているんです。すばらしいでしょう。とても、神の叡智によらなければこんな言葉は出てこないです。おかげ目当てではいけませんけれども、おかげは自分の心のバロメーターだというのです。いかに有難そうにおかげを頂いているというてもね。それに、自分の心の中に頂く所の信心の喜びもなからなければ、おかげも共のうてこないとするならば、それはおかしいんだと、宝は、だから、宝と言う事はおかげ、おかげは、ね、おかげ目当てじゃない。宝は自分の心の目当てだと、私もそれを見せて頂きまして感心した。ちょうど、その朝のご理解が、それをもっと難しく説いたご理解でしたけれども、この良太郎君が頂いておるみ教えを頂くと、朝のあの難しいご理解が簡単に分からせて頂くような感じがするのです。おかげが頂きたい。自分の信心の程度は、も、絶対おかげになるんだ。だから、おかげ、自分の信心のバロメーターになるんだ。ね、おかげ目当てではない。おかげは心の、言うならば自分の心の目当てであると言うのです。ね、お母さんがそう言う信心をいたしますから、子供の上にも、そう言うような働きが起こって、まぁー、いうなら、先が楽しみと言う感じです。ね、それに、お母さんが、どげな信心しているかというと、「私に関わりのある衆生、一切衆生の助かりに繋がる」と言うておる。ね、願えば神様がそれを本当に聞き、又、そして聞き届けてくださる事のために、いろいろ、ためには力も受けてくれよ、徳も受けてくれよ、神様が仰せられるだろうと思うね。いかに周囲、周辺に難儀な人があっても、自分に力なしには助からないね。加藤さん達じゃないけれども、毎朝お届けなさる中に、今度引き当てられたくじが、「1日千日の喜び、千回の喜び」と頂かれた。1日千回の喜び、毎朝のお届けの中に、今日もどうぞ、1日千回の喜びを目当ての1日でありますようにと言うお届けがあります。毎日、以来ね。これは、どう言う事かと言うと、千回言うなら、喜ばにゃならんというような意味じゃない。ね、言うならば、昨年は加藤さんの信心は「今を喜ぶ」と言う事であった。ね、今日1日を喜ぶと言うような、漠然としたものではない。今を喜ぶのである。今、今、私は信心の喜びが有るか、無いか、色んな、たとえば、苦しいけれども、やはり、御神愛を思うたら、有り難いと言うようにですね。今を喜ぶ、それは、まぁ、言葉は今度は変わりました。ですけれども、1日千回の喜びと、ね、もう、とにかく、不平でも、不足でも、言っている暇は無い程しの心の状態、構えを持って日々信心の稽古をしてくれよと言う事である。ね、そこには、ね、なら、どういうような事が起こって来てもそれを喜びで受け止めると言う事だ。場合には、人参に成らなきゃならん事もある。カボチャに成らなければならない事もある。ね、けれども、おかげを頂いて、心がいよいよ豊かに大きくなる。勿論、豊かに大きく、これが成長して行く事は、勿論、いわゆる、宝は心の目当てである。今年も、どうぞ、言うなら、昨年のような、いっちょおかげを、無い命を頂いたり、大ケガをする所をせんですんだり、といったようなおかげを今年も、どうぞ、頂きたい。けれども、それだけでは、ね、何か、信心の成長を感じられません。それこそ、ね、道は孤ならずである。すばらしい道、しかも、あの世までも繋がって行く道、あの世にも持っていけれる、この世にも残しておけると言う程しのお徳、お徳の頂けれる道、と言うのは、日常生活の中に、いよいよ、ね、おかげを頂かせて貰いたい。昨夜は、合楽会でございました。北野の大和さんが発表しておられました。今、あちらは、人参の、が、を、作っておられる中でしょうか、とにかく、人参コケがあります。それを1日がかりで50mしか、進まれんぐらいです。まぁ。退屈な、退屈な仕事でしょうね。ずーとそれをかけていかなければならん、ね、ところがね、それこそ、1本1本人参を抜きながら、それこそ、神様とお話し合いをしておるような、はぁー、こういう心の状態が神様と恋愛中というのじゃなかろうかと思います。と言う発表がございました。今朝からも、その事についていただきましたが、あれは、どなたかの言葉でしたけれども、ね、「二人で行く道は疲れない」「二人で歩く道は疲れない」と言う言葉があります。勿論、仲の良いもの同士と言う事でしょう。または、恋愛中という事かも分かりません。それこそ、手に手を取り合って、それこそ、1日歩いとっても、空きが来ない程しの、いうならば、楽しい信心の生き方というものを身に付けていかなければならない。嬉しゅう、楽しゅう、愉快に、しかも、確かなおかげを頂きながら、それこそ、宝は自分の心の目当てであると言うような実証をふん前ながら、おかげを頂かせてもらう。只今、寒修行中です。もう、それこそ、今朝方なんかは、詰めて下さい、詰めて下さいと言わんならん程に、一杯です。ね、まだ、寒修行の雰囲気を知らない人は、まぁ、月に1回でも、2回でも、一辺、あの雰囲気に触れて見られるといいですね。寒修行そのものが、修行じゃない。これは、先日、富久信会の時に会長であります佐田さんが、の、発表でした。私は、それを聞いて本当に信心を本気で求めて行こうとするひとつの、言うならば、発見というかね。心の悟りというものは、すばらしいと思うた。私共は、寒修行は、ねむかばってん、さむかばってん、お参りをするけれども、これば、修行と思うてまいよる。ところがね。朝参りをするという事は、さほど修行という事は思わない。もう、10数年間ご夫婦で朝参りが続けられておる。ね、それこそ、四神様のみ教えではないですけれども「目に見える所ばかりを大切にして、目に見えない所を疎かにします」信心はその目には見えない所を大切にしていかなければなりません。形だけではいけません。内容がすばらしゅうなければ成りません。ね、それを佐田さんは、そう言うておられますね。言うならば、朝、寒修行に通うて来るという事は、形に見える修行であります。けれどもね。前日の修行は誰も知りません。自分で心掛けておるだけ。ね、深夜テレビを観たり、友達から1杯飲みにいこかと誘われた時に、いや、というて、まぁ断る。そう言うような中に修行、いわゆる、目に見えない修行があるという発表をなさいました。信心は心掛けです。ですから、朝、楽しゅう、有難う、目覚ましのおかげを頂いて、しかも、修行は、さほど、難しいものではないとしての修行が出来る。ね、もし、そこまでに至るまでの、言うなら、前の晩、前の日からの心掛けが、目に見えない修行、誰も知らん。そう言う修行を大切にしながらのひとつ修行でありたい。もう、朝参りが楽しいのである。ね、有り難いのである。そして、おかげが確かなのである。ね、寒修行だから、ね、しゅるしいけれども、まぁ1ヶ月間がんばろうと言うのではなくて、そのがんばらせて頂く、その、言うならば、全体の所をね。大切にさせて頂いて、楽しゅう、有難う、寒修行が出来るようなおかげをひとつ頂きたいもんですね。信心は結局、お徳を頂く事、あの世にも、持って行くものは何にも無いけれども、ただ、信心の徳だけが持って行けれるもの。そう言う大変なものに取り組んでの事ですから、ね、いうなら、そう言うお徳の頂けれる道というものは、ひとりでには開けないんだ。「徳は孤ならず」である。孤ならずという事は、孤独の孤です。そこに何かがある。修行がある。その修行をいよいよ合掌して受ける力、それが力であり、お徳である。ね、それだけが、あの世に持って行けれるという程しの大変なものに取り組んでの信心でございますから、ただ、今日もどうぞ平穏無事と言うだけのお願いだけの信心から、ね、それこそ、高橋さんじゃないけれどもね、おそらく、毎朝の御祈念の時に、その事を願ごうておられるに違いない。今日、今日も、どうぞ成り行きを尊ばせて下さい。大切にさせて下さい。この生き方で行くならば、間違いないね。も、それこそ、まぁー、これは黙っちゃおられんけれども、そういう時こそカボチャに成らせてもろうて、場合には、こういう時に人参の修行をさせて頂きよるなと思うて、いよいよ、ナスのおかげを頂きたい。ナスのお知らせは安心のおかげと仰せられます。ね、1ナス、「1ふじ、2たか、3なすび」といいましょう。ここでは、ナスのご理解は安心といわれる。ね、ギリギリ、いうならば、安心の徳を受け、安心のおかげを頂いてね。いよいよ、喜びの日々を送りたい。それが、ただ、よろこばにゃおられないといった事ばかりではない。構えとか無ければ喜べない。加藤さんじゃないけれども、ね、今日も1日千回の喜びというような、それこそ、今を喜ばせてもらうんだというような構えを作っての信心で無ければならんと思います。
どうぞ。